4度目の安土城跡を上る。初めて上ったのは今から9年ほど前。まだ公園として整備される前のことで入場料などない山の城跡だった。
正面に伸びる石段は「大手道」と呼ばれ、天守に続く。そこら辺にあった野石などを乱積みしたような荒っぽい造りが、どこか信長らしいと感じたものだ。たまに平らな柱のような石が積んであるのだが、見ると文字らしきものが彫られている。なんとそれは墓石なのだ。築城当時、石が足りないため近隣の石という石をかき集めたと言われていて、墓石までを石段にしてしまうなど、信長らしいといえばそうなのかもしれない。(※現在は取り除かれているようです)
途中、額が石段にくっつきそうになるほどの急傾斜の個所があって難儀するのだが、下から仰ぎ見てもそれを感じないのでスーツに革靴で上った。だが、その個所に来て信長の術中に嵌まったと気づく。急傾斜でも正面から見ると傾斜がわからない。当時、そういう計算のもとで造ったのだろうと、その作為に勝手に感心したくなる。私たちは墓石を踏まないように注意深くそろそろと上るものだから、余計に疲れる。「たわけ者め!」というあざけりが天守のほうから笑い声とともに聞こえるようだ。この難儀さも織田信長の仕業だと思えばなぜか納得してしまった。
安土城は謎が多い城である。その一つが「蛇石」と呼ばれた巨石。築城時、天守近くまで運搬していたところ何らかの事故で坂を転げ落ち、大勢を巻き添えにしたという。しかし、どこに落ちたのか、その石も、その場所も未だ不明。また、安土城の天守閣は、その四方が正確に東西南北を向いていたという。天守閣は、遠くから攻めてくる敵をいち早く発見するためであったが、どうも信長の発想は違っていたようだ。一説では、自らが正確な暦をつくろうとしていたのではないかとされている。真偽のほどは私にはわからない。
そのほか、天守閣の下の階まで画期的な吹き抜けの建築が施されていたとか、本能寺の変後になぜ焼失したのかなど、それはそもそも織田信長という人物の謎に起因するのではないかと、そう言われれば納得する。城跡近くに、天守閣を実物大に再現したという「信長の館」なるものがある。初めてその内部を見たとき、「・・・うっ!」と絶句した。一瞬にして、謎が解けるどころかますます深くなってしまった。百聞は一見に如かず!