鹿児島県鹿屋市へ~鹿屋航空基地資料館


2012年7月23日

父は鹿屋の前に、大分の宇佐航空隊に居たらしい。当時、宇佐から鹿屋に人員が移されたと、城山三郎さんの「最後の特攻」で読んだ記憶がある。残念ながら鹿屋資料館には、展示の中にそのような記述は見当たらなかった。
ただ、終戦の折、鹿屋から大分へ帰還した兵隊さんが書いた手紙が展示されていて、そのルートがわかった。日豊線で戻って来たとばかり思っていたが、鹿屋から熊本へ出て、豊肥線で大分へ帰ったことがわかった。わずか17歳の頃だ。芋を洗うような列車に“つかまって”帰ってきたと、そんな表現をしていたことを思い出す。

戦後65年、未だ未帰還のご遺骨が戦地にはたくさんあるという。南方の戦地では、この海の彼方に日本があるという位置にできた洞窟に、とくに多いという。皆、海の向こうの故郷に向いて、家族を思い、故郷を思って自害したのであろうと察せられるという。毎年、わずかづつボランティアの手でご遺骨は帰還しているが、本来ならもっと早くやるべきことであろう。
戦争の是非は別にして国のために戦った方々を最後まで見届けることをしないこの国に、果たして国としてのプライドがきずけるだろうか。誰かの言葉だが、遺骨収集は過去を振り返って懺悔することではなく、日本人の未来を築くために問答無用、“人としてやらなければいけないこと”だと。そうあってほしいと思う。


2012年6月3日 鹿屋。

南九州は走り梅雨か、天気予報もはっきりしない。朝8時、実家のあるに大分県佐伯市宇目を発ち、かつて終戦まで海軍の特攻最前線基地だった鹿児島県鹿屋市の鹿屋航空基地を目指す。特攻基地は知覧が知られているが、ここ鹿屋からも多くの特攻機が飛び立っている。父はここで終戦を迎えたと生前何かの折にポツリと話したことがある。それ以外、鹿屋時代のことをまったく語らなかったのは、話したくないことのほうが多かったからだろう。戦争がもう少し長引けば、父も特攻機に載っていたか、爆撃で散っていたか、間違いなく命はなかったであろうと思う。予科練に志願し、当時17歳で終戦を迎えた父が居たところを一度、訪ねたいと思っていた。

所要時間、約5時間。走行距離225km。鹿屋市は大隅半島の中ほどにあり、桜島よりも南に位置する。資料館は、海上自衛隊の敷地の中にあった。知覧同様に特攻に関する資料がたくさん展示されている。特攻で散っていったあどけない顔をした一人の少年の遺影を指差して「兄さん・・・」と呼びかけていた老婦人の姿をみて一瞬、ドキッとした。傍観者が一気に現実を突きつけられたような、そんな感覚を覚えたからだ。遺影とは別に、基地の写真や少年兵の日常の写真も多々あったが、父の姿は確認できなかった。親子とは不思議なもので、他界して20年にもなる父の青春時代の面影を探ろうなどと思ってしまう。戦時中のことをもう少し、関心を持って聞いておけばよかったと、帰路の225kmは後悔のため息の連続だった。

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