長崎の城山小学校平和祈念館。手前は桜の木 |
大雨の中を列車で長崎に向かう。途中、山間部で激しく振った雨のため、
列車が安全確認のため止まってしまった。約1時間も。
結局、2時間遅れで長崎に到着。これでは予定が大幅に狂う。
長崎は雨が似合うなどというのは、まったく傍迷惑な話だ。
坂の多い長崎は、雨は時にとても深刻な問題を引き起こすからだ。
だから地元の人には、そのことを軽率に話さないほうがいい。
列車を降りて向かった先は、旧城山国民小学校校舎。
昭和12年に建築された、九州最初の鉄筋コンクリート造の
小学校だった。当時、ここに通った小学生は1500人ほど。
昭和20年8月9日は、すでに夏休みだったため、
児童は各家庭にいたが、ここらは爆心地に近かったため
1400人余りの児童が犠牲になったという。
そういう記録に目を通すことさえ、気が重い。
現在あるのは原爆に耐えた校舎の一部だが、当時のままの姿を留めている。
原爆の被害を受けた建造物では現在、唯一残された建物だという。
爆心地から500mのところに今も残る原爆モニュメントだ。
中は小さな資料館になっていて、当時、この小学校で起きた事実を
粛々と展示している。コンクリートのところどころに埋め込まれた
木の板の表面が、原爆の熱線で一瞬にして炭化した跡がくっきりと見て取れる。
ここは建物の内部だというのに・・・。
学校で亡くなったのは、多くは先生方だ。その年齢を見て驚く。
なかには18歳、20歳の若い先生がいる。
亡骸は、校庭で荼毘にふしたという記録が写真とともに残っている。
白黒写真のなかで白い骸となって、今もこの学校と共にあるのだろう。
その広い校庭には、現在も子供たちが駆け回っている。
70年以上が経ってはいるが、記録を見たら当時の様子が
目の前に浮かんできて、思わず手を合わせた。
今日の平和は、まさしくそうした多くの方々が礎となって
もたらしてくれているのだと感謝に堪えない。
建物にかかる緑は、春には桜に変わる。
丘の上にある学校に登る坂道にも桜が植樹されている。
「平和坂」「永井坂」ともに永井博士の協力によって植樹された
桜の子孫だという。
原爆資料館とともに訪れたい長崎の原爆遺跡の一つである。