長崎原爆遺跡 旧城山国民学校校舎~長崎市

長崎の城山小学校平和祈念館。手前は桜の木
2016年7月 長崎

大雨の中を列車で長崎に向かう。途中、山間部で激しく振った雨のため、

列車が安全確認のため止まってしまった。約1時間も。

結局、2時間遅れで長崎に到着。これでは予定が大幅に狂う。


長崎は雨が似合うなどというのは、まったく傍迷惑な話だ。

坂の多い長崎は、雨は時にとても深刻な問題を引き起こすからだ。

だから地元の人には、そのことを軽率に話さないほうがいい。


列車を降りて向かった先は、旧城山国民小学校校舎。

昭和12年に建築された、九州最初の鉄筋コンクリート造の

小学校だった。当時、ここに通った小学生は1500人ほど。

昭和20年8月9日は、すでに夏休みだったため、

児童は各家庭にいたが、ここらは爆心地に近かったため

1400人余りの児童が犠牲になったという。

そういう記録に目を通すことさえ、気が重い。


現在あるのは原爆に耐えた校舎の一部だが、当時のままの姿を留めている。

原爆の被害を受けた建造物では現在、唯一残された建物だという。

爆心地から500mのところに今も残る原爆モニュメントだ。


中は小さな資料館になっていて、当時、この小学校で起きた事実を

粛々と展示している。コンクリートのところどころに埋め込まれた

木の板の表面が、原爆の熱線で一瞬にして炭化した跡がくっきりと見て取れる。

ここは建物の内部だというのに・・・。


学校で亡くなったのは、多くは先生方だ。その年齢を見て驚く。

なかには18歳、20歳の若い先生がいる。

亡骸は、校庭で荼毘にふしたという記録が写真とともに残っている。

白黒写真のなかで白い骸となって、今もこの学校と共にあるのだろう。


その広い校庭には、現在も子供たちが駆け回っている。

70年以上が経ってはいるが、記録を見たら当時の様子が

目の前に浮かんできて、思わず手を合わせた。

今日の平和は、まさしくそうした多くの方々が礎となって

もたらしてくれているのだと感謝に堪えない。


建物にかかる緑は、春には桜に変わる。

丘の上にある学校に登る坂道にも桜が植樹されている。

「平和坂」「永井坂」ともに永井博士の協力によって植樹された

桜の子孫だという。

原爆資料館とともに訪れたい長崎の原爆遺跡の一つである。