朝倉の秋の田
2017年7月の九州北部豪雨により大きな被害が出た朝倉。
とくに杷木地区の奥の集落は、3ヶ月が過ぎた10月になっても
被災時のままの生々しい姿を留めている。
毎年恒例の秋の小石原民陶祭の開催に合わせ、その前日に開通したばかりの
県道を行くと、鳥肌が立つほど生々しい傷跡が車窓の左右に広がっていた。
昨年、宮城県の南三陸町を取材で訪れ町を呑み込んだ大津波の恐ろしさを
実感したばかりだが、山の斜面を削り取り今頃は豊かな実りを育んだであろう
田畑を呑み込んだ北部九州豪雨もまた津波同様の壊滅的な状況をもたらした。
驚いたのは、道路は川よりもかなり高いところを走っているのだが、
そこまで水が来ているのは山に降った雨が川に流れ込まずに
そのまま民家を背後から襲ったからであろう。
東北の大震災から6年半、ようやく復興が目に見えるまでなったようだが
ここまでのいたずらに長い時間を費やすことになった理由は、
行政の不確実な制度にも問題があったからだろう。
この朝倉もまた、復興にはかなりの時間がかかるのだろうか。
この朝倉市には、古代日本の標が数多く残っている。その一つ、
写真の碑に刻まれた文言を見ればそれがわかる。
右の上から「天智天皇御製 百人一首」と刻まれているように見える。
さらに・・・秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ
我が衣手は 露にぬれつつ
と続く。つまり、天智天皇がこの朝倉の地で詠んだとされる歌だ。
そして百人一首の一番の歌でもある。私たち日本人が子供頃から親しんできた
百人一首は、この朝倉を舞台にした歌から始まるのである。
天智天皇は、その前の名を中大兄皇子と言う。そう、西暦645年
大化の改新を成し遂げた人物である。これも多くの日本人が、歴史の授業で
必ず覚える年号である。その当時、朝倉に来ていたということだろうか。
その史実を裏付ける標もまた、朝倉には多い。
北部九州は、古代日本の歴史が刻まれるロマンの宝庫なのである。